百年経っても

怪物aネタバレ注意!! 2024.6.27


「約束通り、ちゃんと三食昼寝付き。家にあるものは自由に使っていいし、何か必要ならこれで買ってくれたらいいよ」  男の家に身を寄せることとなった、退院初日の朝。持たざる者には到底縁のないブラックカードをこともなげに手渡しながら、男は言った。つぎはぎだらけの顔を、嬉しげに柔くほころばせながら。 「退院したとはいえ、まだ療養は必要だ。気分転換に遊びに行くのはかまわないけど、長時間動いたり、働きに出るのは控えてくれるかい?」 「今から長時間働きに出る院長センセーが言っても説得力ねえな」 「いやあ、俺は朱鳥と違って、見た目の割に元気だからね。しっかり働かないと」 「ああそうかよご苦労なこったな。……安心しろや、お願いされたって当分働くつもりなんざねぇよ」  見送りの際に放った言葉は嘘じゃなかった。元々の仕事だって、決して好きだったわけじゃない。自分と同じクズを角材でぶん殴る瞬間だけはスッキリしたが、そんな爽快感など瞬きのうちに失せてしまう。労働において朱鳥が常に感じていたのは、梅雨の空気のようにじっとりとへばりつく不快さだけだった。  空から金が降ってきたらいいのに。そうすりゃその場にいるやつ全員ボコボコに殴り飛ばして、集めた金で一生働かず、なんでもやりたいことをして生きてやるのに……時折そんな空想を浮かべながら、朱鳥は云十年もの間、債務者を地獄に叩き堕としてきた。けれど、いざその夢が現実になってみると……やりたいことなど、これっぽっちも思いつかないのだった。  最初は思うさま自堕落に過ごしてやろうと思った。とはいえだらだらと惰眠を貪るなんて、入院中に嫌になるほど経験済だ。  なら遠慮なくカードを使ってやろうかと街にも繰り出した。けれどどれだけ彷徨えど、これといって欲しいものも見当たらない。  ならせめて美味いメシでも食ってみるかと、到底縁のなかった高級焼き肉店にも入ってみた。しかし実際に口にしてみても、劇的な味の違いは感じられなかった。  会計金額が一桁も違うのに、食う人間の感覚に変わりがないなら意味がない。朱鳥は無駄金を使うことが嫌いだ。それに、いざこうして世話になってみると、あの男に借りっぱなしの今の状況は、何故だかどうにも落ち着かなかった。今までは借りっぱなしの金を使い込もうが、募金箱の中身を取っ払おうが、盗んだバイクを置き去りにしようが、良心など欠片も痛むことなどなかったのに。あの男には、元より己の命という大きな借りがあるからだろうか。それとも、無自覚な理由が腹の底に巣くっているのだろうか……まあ、それはさておき。  せめて家賃代わりにと掃除やら飯やらの雑用を勝手に引き受けてみたものの、それだって半日も立たずに終わってしまう。朱鳥は一日の長さに辟易していた。どうしたらいいかわからなかった。変わらぬ安穏を享受する日々は、なんとも居心地が悪かった。……嫌、という訳でも、ないけれど。  ともあれ、長年夢見てきた「何もしない」ということが、己にとってこれほどまでにストレスになるなんて。  29年間生きてきて——正確に数えるなら39年間だが——初めての感覚に、朱鳥は何度目かわからない溜め息を吐いた。 「朱鳥、どうかした?」  もはや聞き慣れた声に、冷めつつある味噌汁から視線を上げる。食卓を挟んだ向かい側で、下手くそな縫い目を携えた男がこちらを見つめていた。 「……マジで、おまえはオレに何をしてほしいんだよ」  茶碗を雑に置き、頬杖をついたまま男を箸で指し示す。育ちの知れる粗野な行動とは対照的に、男は品の良い所作で生姜焼きを口に運ぼうとしていたが……その状態のまま、心底不思議そうに首を傾げた。 「何って?」 「オレに聞くなや、わかんねえから聞いてんだろうがよ。借りだけ作んのも気持ち悪いから家事はしてやってるけどよォ……こんなしょうもねえ貧乏料理より、もっと美味いモン作れる家政婦だって雇えんだろ?院長センセーならよ」 「美味しいけどなあ」 「おー、そうかよ。セール品の豚肉で満足できる舌をお持ちだとは思わなかったわ」 「やりくり上手だね」 「いちいち褒めんな」 「思ったことを言ってるだけだよ。今も、今までも」  最後の一口を咀嚼し終えて、男はごちそうさま、と律義に両手を合わせる。そうして、変わりのないトーンで、当たり前のように言葉を続けた。 「何をしてほしいんだって、きみは聞くけど」 「おう」 「何もしなくていいよ、いてくれるだけで充分……って、前も言わなかった?」 「……いるだけで価値があるからってか?」 「そうだよ」 「存在するだけで価値ある人間なんて、この世にいるわけねーだろうが」 「なら、きみにとっての弟はそうじゃなかった?」  返答に詰まる朱鳥に、男は微笑む。 「俺にとっての朱鳥も同じだよ」 「……うるせえ」 「いてくれるだけでいいんだ。それだけで、俺は嬉しい」 「うるせえっつってんだろ耳ついてねえのかテメエは!」  我慢できないむず痒さに、衝動的に手を机に叩きつける。突然の大きな音や怒声が人間の本能的な恐怖を揺さぶることは、学ばずとも分かっていた。たいていの人間はこれで怯むはずなのに、この男は逆に嬉しげだ。その理由が、男の、己に対する純然たる『好意』によるものだということも……もう、充分に解らされている。  買ってもらえなかったランドセルを、横目に睨みつけていたあの頃から。朱鳥はいつだって、理不尽な暴力と悪辣な環境の只中にいた。大人も女も老人も、誰であろうと信じなかった。弟以外のすべての人間は、己を脅かす敵であり、生きるべく食らうための餌でしかなかった。  なのに、頭のイカれたこの男は、そんな朱鳥に「好きだ」と宣う。朱鳥に染みついた弱肉強食の考えも、人を騙し、いたぶる様さえも、新しい世界だと肯定する。そうして、朱鳥が何より憎んでいた「一目惚れ」からはじまった「愛」とやらを、愚直なまでに伝えてくるのだ。  ……親にさえ向けられなかった好意を、こんなにもまっすぐに向けられるのは初めてだった。だからこそ、己の胸中に積み重なっていくこれを、どうしたらいいかわからない。もう要らないと拒否しても、 おかまいなしに積み上げてくるのだから。  このままでは溢れてしまう。けれど、邪魔だと無下に捨てることには躊躇いを感じた。与えられるあたたかさが「悪くはない」ことを気付かされたせいだ。あのとき、生と死の狭間の常闇の中で……こいつのせいで!  拳を強く握り、朱鳥は男を睨みつけた。それでも男が浮かべるのは、変わらない嬉しげな笑顔だ。そこにはひとかけらの嘘もない。何もしないでいい。いるだけでいい……その言葉が、まぎれもない本心という証だった。 ……けれど、だからといって、それ以上が欲しくないわけではないはずだ。  朱鳥だって、本当は解っている。この男が求めるものなんて、十年前のあの時から、少しも変わってやしないのだろう。  一言だ。ただ一言だけ言ってやればいいだけなのに……その一言が、どうしてこんなにも難しい? その場しのぎの嘘なんて、散々吐き続けてきたはずなのに。 「……なあ」 「うん?」 「こんなこと続けてたって、10年経っても言わねえぞ」  変わる空気を予想して、朱鳥は少し身構える。けれど、少しの沈黙も訪れることはなく……男はただ、こともなげにこう言った。 「じゃあ、20年後を待つよ」  果たして、言葉を忘れたのはこちらの方だった。陽に照らされた新緑のような穏やかな瞳を、見開いた紅の瞳で見つめ返すことしかできない朱鳥を見て、男はゆっくりと言葉を紡ぐ。 「きみが眠っている間、本当はずっと怖かったんだ」 「でも今は違う。きみは目覚めて、こうして言葉を交わしてくれる。当たり前みたいに眠って、起きて……俺の前で、生きてくれている」 「だから待てるよ。今までよりももっと、幸せな気分で待っていられる」  注がれる言葉は緑雨のようだった。ただ、ひたすらに優しかった。握った拳の力が、食卓の上で力無く緩んでいく。そんな、長い眠りの末に白くなった朱鳥の手に、つぎはぎだらけの掌が重なった。自分以外の体温には未だに慣れず、微かに肩が跳ねたけれど、振り払いはしなかった。すると、それだけで充分だと言わんばかりに、男が嬉しげに笑うものだから。 「……やっぱお前、頭イカれてるよ……」 「イカれてるから、ここまで待てた。違うかい?」  無意識に溢した悪口めいた本音にもこの切り返しだ。暖簾に腕押し、なんとやら。朱鳥の唇から、また深い溜め息が吐き出される。 「……ああそうだな、その通りだわ」  呆れているのは目の前の愚直な男にか、それとも……そんな愚かな男に絆されはじめている、等しく愚かな自分にだろうか。まあ、どちらにしても。 「だったら今後も長々待てるように、そのイカれ頭が治らねえことをせいぜい祈っててやるよ。……なあ、亜門センセ?」  挑発するように口角を上げれば、呼ばれた男……亜門は目を丸くして、ぱちりと三度瞬きをした。どこか幼くも見える、虚をつかれたような顔に、やられっぱなしだった朱鳥の溜飲も少しは下がる。しかし、それも束の間だった。今までとは比べ物にならないくらいに嬉しげな声を上げながら、亜門は朱鳥の手をぎゅうっと握る。 「嬉しいな、名前を呼んでくれるなんて」 「おうおうそりゃ良かった。豚肉といい、舌も頭も安上がりだなテメェは」 「安上がりなんかじゃないさ、俺にとってはすごく価値があるよ。それに……長々待てるように祈ってくれるってことは、きみも同じくらい長く、俺と一緒にいようって気持ちがあるってことだろう?」 「………………ンなつもりで言ってねえよバカかテメェは!」  一気に熱くなる顔を誤魔化すように怒鳴りつけても、亜門の喜色は変わらない。ああ、しまった。仕返しをするつもりだったのに、よもや掘ったものは墓穴だったのだろうか。嫌な予感にくらりと頭が揺れる。そんな朱鳥の気もしらず、亜門はゆっくりと言葉を続けた。 「大丈夫。ちゃんと待つよ。それに……」  そこで一呼吸置いて、亜門は握ったままの朱鳥の手を見下ろすと。 「ちゃんと待っていたら、いつかここに、お揃いのリングを嵌めてくれる日だってくるかもしれないだろう?」  薬指を優しくなぞられて、朱鳥の思考が停止する。  数拍の後、朱鳥は錆び付いたロボットのようにぎこちなく首を動かして、己の手から相手の顔へと視線を向けた。当の亜門はというと、そんな挙動すら愛しいとでも言うように、楽しげな顔で笑っているものだから……。 「……百年経っても嵌めねえわ!!」  元より小さな堪忍袋はついに破裂し、激昂の蹴りが食卓を襲うのだった。 百年経っても   2024.6.27