胡蝶は蜘蛛の夢を見る

芋虫ネタバレ注意!! 2024.6.27


 夢を見た。  光の届かない地下室で、扉に向かって這いずる夢だ。  四肢の骨肉を失った身体は存外に軽いが、動く速度は赤子にも劣る。短くなった身を幼虫のように揺らせど、どうにか僅かに前進するばかりだ。それでも諦めずにもがき続けていれば、ごつり、額に硬いものが当たる——ああ、扉だ。涙が出るほど安堵して、藁にもすがる気持ちで顔を上げ……今度こそ、底のない絶望に叩き落とされた。気づいてしまったからだ。今の己では、どうしたってドアノブに届かないことに。  己にはもう足がない。釈迦の糸に縋る指すらない。できることは、残された頭でただ祈るだけ。……開いてくれ、どうか、開いてくれ!  はたして、願いは叶った。存外に軽い音を立ててあっさりと扉が開き、隙間から光が差し込む。あっけなく訪れた一縷の希望に目を見開くが……その光が己の身に降り注ぐことはなかった。 「先生」  扉の先には、男がいた。けして大柄ではなかったはずなのに、今の自分にはあまりに大きく見えるその身体に阻まれて、視界に暗い影が落ちる。目を見開き固まる己へと、男はそっと問いかける。 「こんなところまで這ってきちゃったんですか?」  現状に相応しくない、どこまでも優しく、安穏とした声色だった。困ったように微笑む男の腕が影と共に伸び、胴体を捕まえる。悲鳴をあげてもおかまいなしに、その胸に深く抱かれて……外の景色は、終ぞ見えることはなかった。  男はずっと満足げで、至極愛おしそうに己を抱いた。動くことも、食事も、排泄だってまともにひとりでできやしない己に、甲斐甲斐しく世話をした。  その腕に抱えられるたびに。口元にスプーンを捩じ込まれるたびに。排泄の羞恥に堪える腹を、優しくぐうっと押し込まれるたびに。己の尊厳がいとも簡単に奪われ、打ち砕かれる感覚がした。  顔を隠したくても腕がない。  蹴り飛ばしたくても足がない。  せめて、自由になる声だけは律したくて唇を噛んでも、すぐにこじ開けられてしまう。  考えうる中で最悪の所業だ。人でなしの犯罪だ。  なのにこの男は、ひどく優しい声で宣った。 「大丈夫。俺が先生を守ってあげますよ」 「先生が俺以外で苦しむ姿はもう見たくないんです」 「だって、そんな姿が見られるのも、俺だけの特権であるべきでしょう?」  一糸纏わぬ己の前で、一糸乱れぬ姿のまま。  人間の皮を纏った、悍ましい化け物が笑う。 「ねえ、先生」 「俺の前で笑って、俺のせいで泣いて、俺のことで怒って」 「俺のために生きて……俺の腕の中で死んでくださいね」  夢を見た。  かろうじて足の踏み場が残されるばかりの、散らかし慣れた仕事場で。年季の入ったオフィスチェアに座って、机の上の原稿に向かい合う夢だ。  四肢はちゃんとある。右腕も意のままに動く。  泣き出しそうになりながら、自分は嬉々としてペンを持つ。待ち侘びていた続きを、この上ない生きる意味を紡ぐ。  最終チェックを終えれば、達成感と歓喜が駆け巡る。身体中に行き渡るアドレナリンに打ち震えながら、勢いよく振り向く。……そこには、変わりなく彼が立っている。 「お疲れさまです、絹笠先生」  穏やかに笑う彼に、いつものように原稿を渡す。紡いだ物語を、担当編集である彼は誰よりも先に読んでくれる。いつも、この数分間が楽しみだった。早鐘を打つ胸に広がる、不安と期待がないまぜになった感覚さえも嫌いじゃなかった。 「今回も面白かったです!」  そう言って目を輝かせる、その顔が好きだったから。  作家とはとかく癖のある人種が多い。自分もご多分に漏れず、自他共に認めるややこしい人間だった。けれど彼だけは、どんなときでも自分を否定しなかった。外野の声を気にしすぎる自分が情緒を乱して泣き喚いた時も、スランプに陥りペンを持つ手が止まってしまった時も、変わらずそばで支えてくれた。その献身に助けられ、その信頼に応えたいと願う気持ちがあったからこそ、自分は折れずにここまで走ってこれた。そう自覚できるくらいに、自分はずっと、彼のことを信頼していて……いつしか、そばにいるのが当たり前だと感じるほどに、彼のことが好きになっていた。  そう、好きだったのだ。  それが、彼と同じ熱を帯びていなくとも。  灯った温度は、たしかにここにあったのに。 「それだけじゃ駄目だったのか?」  問い掛ければ、目の前で彼が曖昧に笑う。  それを最後に、懐かしい景色は暗転した。  夢を見た。  ありもしない夢を見る夢だった。  それらは過去であり、そうなるはずだった未来であり、現在でもあった。起こり得た可能性が、己の脳にこびりついた感情の残滓が、悲喜交交の幻想を見せていた。いや、見ているのかもしれない。今も、まだ。  夢を見ていた。  醒めた現実で気づいた。  夢を見ていた。  夢を、夢を、夢を……。 「ねえ、先生。どれが本当なんですか?」  わかるわけないだろうと吐き出した。  正気の所在が視えるなら、誰がペンなど握るものか。 胡蝶は蜘蛛の夢をみる  2024.9.9