プルシャンブル―に花が咲く
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夜風は、涼やかな夏の湿気を孕んでいた。 立ち並ぶ屋台から香る、焦げた醤油の香ばしい匂い。 にぎやかな喧騒の中で弾む、子供たちのはしゃぎ声。 目の前を緩やかに流れていく、鮮やかな浴衣の群れ。 一夜にして夏祭り会場に様変わりした公園から、ぽつんと離れた噴水に腰掛けて。紫苑はひとり、騒がしい景色をぼんやりと眺めていた。手には小ぶりなりんご飴と、三つ連なったいちご飴。人混みを掻き分け、どうにか手に入れた戦利品だ。 玲王の姿は未だ見えない。今もあの中で、焼きそば屋台を求めて悪戦苦闘しているのだろうか。 ……俺がどっちも買いに行くって言ったのにな。そうしていたら、もう合流できていたかもしれないのに。 思えども、待ちぼうけに苛立つことはない。いつも通りに凪いだ心で、紫苑はそっと空を見上げた。 日中の燃え盛るような太陽を失った空は、穏やかなプルシャンブルーに塗り替えられている。雲はない。とはいえ東京の夜では、肉眼で見える星など限られている。ささやかな星々の輝きの中で唯一、白い月だけがぽっかりと浮かんでいた。温度の感じられないそれを、ぼんやりと見つめているうちに……からん、ころん、と、おぼつかない下駄の音が近づいて。 「なにぼーっとしてんだよ、しー」 月から地上へ意識を戻せば、目の前には見慣れた仏頂面があった。 湯気の漏れる白い発泡容器を三つ抱えた彼が纏うのは、薄灰色の流水紋がさっとひと筋流れているばかりの、シンプルな黒い浴衣だった。彼曰く、祖父からのお下がりを祖母に着付けられたらしい。「ガキの頃じゃあるまいし、普段着で良かったのに」とぼやく彼の髪は、いつもと違って綺麗に一つに束ねられていた。どうやら、なんだかんだ言っても最後まで、祖母の道楽に付き合ってあげたようだ。 「焼きそば、思ったより量少なくてよ……だからたこ焼きも買ってきた」 「ん、ありがと。……人混み、大丈夫だった?」 「は?大丈夫に決まってんだろうが、馬鹿にしてんのか」 紫苑に荷物を手渡した玲王は、ぶっきらぼうにそう言いながら、そっと左耳に触れる。そこに埋まるピアスを——ただひとつの生命線を確かめるように、何度かくりくりと弄ったあと……「でも疲れた」とため息交じりに吐き捨てて、紫苑の隣にどっかりと座りこんだ。それから、人気のない噴水の周りをぐるりと一瞥すると、不思議そうに首を傾げる。 「なんか、人いなくね?昔はここから花火見てるやつ多かったのに」 「あー……あそこに、ビルが建ったから。もうほとんど見えなくなって……」 「は?……マジだ。いつ建ったのあれ」 「中学のときくらい……?」 「へえ、全然知らなかったわ……まあ、ここ来るのも小学生ぶりだしな」 「昔は毎年、れおと一緒に来てた」 「そうだな。……おまえは?中学んときとか、高校んときは来てなかったの?」 「……多分?」 「多分ってなんだよどっちだよ」 怪訝そうに眉を寄せる玲王から視線をそらして、はぐらかすように小さく笑う。本当は一度だけ、ひとりで夏祭りに来たことがあった。中学一年生の夏……玲王が事故に遭ってから、はじめて訪れた夏に。友達の誘いを断って、家からこっそり抜け出して。今日と同じように、ひときわ綺麗なりんご飴を買ったのだ。 紫苑は、いちご飴の方が好きだった。でも、玲王は毎年欠かさず買うくらい、りんご飴が大好きだった。だからこれを持っていったら、また俺と会ってくれるかもしれない。そう思って、そう願って、どきどきしながら家まで戻った。けれど途中で小さな子供にぶつかり、その拍子に飴を落としてしまったのだ。 びっくりしたけど、自分よりも相手のほうがもっとびっくりしたようで。ごめんなさいとわんわん泣かれたものだから、飛び出たショックはすぐに引っ込んでしまった。「大丈夫」と慰めて、遠くからやってくる母親らしき人にぺこりと頭を下げて。砂塗れになった飴を拾って、紫苑はすぐにその場を去った。けれど祭りの喧騒が遠ざかり、玲王の家が見えてきた頃になると、引っ込んでいた感情がじわじわとせりあがってきて……途方もないさびしさとないまぜになったそれは、涙になって頬をこぼれ落ちた。 りんご飴を、落としてしまったからじゃない。だって、わかっていたのだ。こんなものあげたって、きっと玲王は喜ばない。もしも落とさなかったとしても、玲王は俺には会ってくれない。砂だらけのりんご飴はやけに重くて、それでもどうしても捨てられなかった。 家に着くまでに泣き止まなければ。そう思って、涙を引っ込めるために上を見た。そうすると、やけにはっきりとした月が、変わらずに優しく光っていたものだから。 ……帰りたい、と。 心の底から、そう願った。 「しー?」 呼ばれた声にはっとして、隣を見る。いつのまにか、眉を寄せた玲王が顔を覗き込んでいた。 「なに、おまえ。気分悪いの?」 心配の滲む声とともに、意外に大きな手のひらが伸びてくる。紫苑の汗に濡れるのもかまわずに、額に触れる。 ……そうだ。今はあのときとは違う。 玲王はいつも、紫苑の手の届く場所にいてくれる。 だからもう、寂しくない。 帰りたい場所は、月じゃない。 「……れお」 「なに」 「ぎゅってしたい」 「………………………………は?」 玲王は紫苑の額に触れたまま、猫みたいに目を丸くした。紫苑は返答を待たずに噴水の縁に焼きそばを置いて、たこ焼きを置いて、いちご飴を置いて……置きどころがなくなったりんご飴だけを片手に、玲王に向かって軽く腕を広げる。少し前屈みになるその姿勢は、さながら待てをしきれない犬のようだった。その様に、玲王が呆れたように眉を下げる。 「………………おまえさあ……大学生にもなってさあ……」 いつもならばべちん、と肩を叩かれてもおかしくない言動だが、そうはならなかった。何か察するところがあったらしい玲王の瞳は、怒りよりも困惑を色濃く映している。 「ここ、どこだかわかってんの?」 「え……公園?」 「そうだよ公園だよ、公共の場だよ。人の多い夏祭り会場だろうが。そんな中、男二人でハグしろってか?」 「でも、こっちには人いないし……もう花火始まるから、あっちの屋台の人たちも、もっと減ると思う……ていうか、もうかなり減ってる」 「減ってるとしても、いつ誰に見られるかわかんねえ公共の場だってことは変わんねえだろうが」 淡々とした返答に、紫苑は口を噤んだ。頑張って言い返そうとしたのだけれど、言葉が思い浮かばなかったのだ。無言のまましょんぼりと目を伏せれば……少しの沈黙の後に、小さなため息の音が降ってきた。 「おまえさあ、昔っからそれだよな」 「……何が?」 「拗ねたときの顔。口尖ってんだよ、アホ」 顔を上げて、玲王を見た。呆れたような口調と表情。それでもその目はどこか優しい。瞬間、ああ、変わってないなあと思った。紫苑の「どうしても」のわがままを、玲王は昔からいつだって、こんな顔をして許してくれるのだ。 「ん」 想像通りの2度目のため息と共に、玲王は両腕を広げてくれた。 「……いいの?」 「ダメっつったら大人しく花火見んの?」 「……ダメって言われたら、落ち込む」 「じゃーいちいち聞くなやうぜえな……なに、しねえの?だったらしねーけど」 玲王があっさりと手を引っ込めようとしたものだから、紫苑は慌てて彼の背に手を回すと、長身を屈めてぐっと抱き寄せた。そうすれば、同い年であるはずの彼の身体は、紫苑の腕の中にすっぽりと収まる。まるで、あつらえたかのような自然さで。 自分の身体が大きいことは自覚しているが、それを踏まえても、やはり玲王の身体は小さいなあと思った。思ったけれど、口には出さない。それを言えば今度こそ、突き飛ばされた上に脛を蹴られるだろうから。 「……暑ぃんだけど」 ぼそりと呟いて、玲王が少しだけ身じろぎした。紫苑は反射的にさらに深く抱きしめ、肩口に顎を置く。 「おい」 べちん。背中を叩かれた。 「暑ぃっつってんのになんでもっとひっつくんだよ、嫌がらせか?」 「だって、れお、離れようとした」 「ちょっと距離取ろうとしただけだろうが」 「ぎゅってしていいって言ったのに」 「させてやってんじゃねーかよだから!」 べちん!今度はちょっと痛かった。けれど離さず、額をぐり、と押しつける。見た目に反して存外柔らかな猫っ毛からは、自分と同じシャンプーと、ほんのりと汗のにおいがした。何故だか心の奥底がざわめいたけれど、背を叩かれる衝撃にその感覚も霧散する。玲王は何度かべちん、べちんと繰り返して……諦めたように、息苦しげに短く息を吐いた。 「……離れねえから、ちょっとだけ腕緩めろや。痛ぇんだけど」 「え、………………あー、ごめん……」 言われて気づいた。りんご飴を握る片腕にも、玲王の腰を掴むもう片方にも、いつのまにこんなに力を込めてしまっていたんだろう。肩口から顔を離して腕の力を緩めれば、玲王は長く細い息を吐いた後顔を上げた。眉を寄せた彼は紫苑を睨め付け、文句をぶつけるために口を開く。けれど、言葉が出るよりも先に、彼の灰色の瞳に色が咲いた。 「あ」 声を出したのはどちらだっただろう。それと同時に、乾いた破裂音がした。玲王はぱちりと瞬きしたあと、しー、後ろ、と、子どものように浴衣を引く。彼の背に腕を回したまま背後を見やれば、玲王の視線の先、ビルの隙間からは……星よりも眩しく燃えながら、ゆっくりと落ちていく花が見えた。 散りゆく花弁が消える間も無く、また花火が上がる。遅れてどん、と音が響き、光の粒が鮮やかに散らばる。 コバルトグリーン。カーマイン。レモンイエローに、バーミリオン。 白い月さえ霞むほど、プルシャンブルーに色が咲く。 「しー」 名前を呼ばれてはっとして、空から彼へと視線を帰す。夏の夜の色彩を一身に宿した瞳で、玲王はまっすぐに紫苑を見つめると。 「来年は、もっとちゃんと見える場所に連れてけよな」 当たり前のようにそう言って、昔と変わらぬ顔で笑った。 ……それが、あまりに嬉しくて。 息も止まってしまうほど、眩く見えたものだから。 べちゃり。 何かが地面に落ちた音がした。玲王の視線が地に降りて、そのままぴしりと固まる。つられるように目をやったそこには……今まで紫苑が手に持っていたはずの、玲王の好物が転がっていた。 「……………………」 「………………あー……」 目の前でわなわなと震える唇。 謝ろうとしたって、もう遅い。 「なに落としてやがんだこのアホ!!」 花火の音に負けない怒鳴り声。拾ったりんごは砂だらけ。 むかしむかしのあの時よりも、もっとひどい有様だけれど……今度はなんにも、さみしくなかった。