日々をおくる

何度目かの、そして最後の。 2025.03.04


 いつだって、日が昇る前に目が覚める。  鳥の声さえ聞こえない部屋の中、鏡に向かって口角を持ち上げてみせるのが自分の日課だ。今朝だって変わらないはずだった。うっすらと開いた視界が、見慣れた……それでも寝起きには充分なインパクトのある仮面でいっぱいになるまでは。 「うおッ……!?」  反射的に後ろに飛び退けば、無防備な背骨が壁に激突する。声すら出せない痛みにただ震える己の頭上に注ぐのは、しみじみとした語りかけだった。 「ひとは驚きに声を上げ、突然の痛みには声を失う生き物なのだ……」 「……何の専門家だよ……」 「ペイン専門医のちとせだよ〜」 「しゃらくせーある」 「でもそのしゃらくささに、いつのまにか患者は痛みを忘れたようなのだ……」 「マジでしゃらくせえな」  ゆらゆら身体を揺らしながら、少女はいつものように軽く首を傾げてみせた。細い肩を、金の糸がさらりと流れ落ちていく。未だ夜闇の面影が色濃い朝まだきだというのに、なぜ淡く光って見えるのだろう。不思議に思えど、さして重要なことではない。それよりも気になるのは、いつもならば丑三つ時に眠り、昼まで起きない彼女が、唐突に訪れてきた理由の方だった。 「こんな朝っぱらから何の用あるか?いつもなら昼までぐーすか寝てるくせに」 「そこなんすよね」 「今度は誰だよ」 「逆に考えるんだ……いつも寝てるなら、起きちゃってればいいやと考えるんだ……」 「あー、オールしてるってことあるか?」 「そうある、眠いある」 「寝ろよじゃあ……」 「言われなくたってさ、やることやったらゆっくり寝るよ。ほら、どいたどいた」  そう言うと、彼女は自分をベッドからおいやって、枕や毛布の位置を綺麗に戻しはじめる。……よもや、ゆっくり寝るとは自分のベッドで?……ひとこと言ってやりたくなるものの、現段階で文句をつけてはいけない。「憶測でものを語らないでよ」などと言い返されるのがオチなのだから。  ならばせめてと、あからさまなため息を吐いたとて、目の前の少女はどこ吹く風。あいも変わらず、ゆらゆら揺れているばかりだ。 「ねえまだわかんないの?あたしのやること」 「ワタシはエスパーじゃねーあるからね〜」 「せっかくあたしが決めたげたのに?」 「はあ?」 「じゃあ特大ヒントあげる。あたしはまず、くうくう寝てるのっぽの顔に、これをつけようとしてたんだよね」  そう言って、どこからともなくさっと取り出したのは……。 「………………」 「素敵すぎて言葉を失ったか」 「……まあ言葉は失ったあるねー、とんだ浮かれポンチ野郎になるところだったあるからねー」 「ぱりぴみあるでしょ」 「パリピでもつけねーある」  ケーキを模したフレームの、浮かれたピンクのサングラス。蝋燭のように突き刺さったアルファベットの成す言葉は、いくら無教養の自分だってわかる決まり文句だ。  目の前の少女はマイクを持つふりをして、拳を弱々しく突き上げながら気の抜ける歌声を披露し始めた。 「はっぴ、ばーすでーえぇ〜。はっぴ、ばーすで〜えぇ〜、ええ〜」 「曲もパリピの方かよ」 「とぅーゆーの方は飽きたかなって思ったあたしの粋な計らいじゃんね」 「……ああそりゃどーも」 「まだまだあるよ、粋な計らい。机を見な」  迫ってくるサングラスを片手で制しつつ、促されるまま彼女の背後に隠れていた雀卓……もとい、ローテーブルを見る。そこには花の形をした、火の灯っていないキャンドル達が飾られていた。中心には、真っ白なケーキが鎮座している。彼女の手のひらひとつ分ほどの、小さな丸いケーキだ。ホイップクリームが等間隔にちょこんとのっかっているばかりで、主役のはずの赤いいちご達は、足元にこっそりと添えられている。  無言のまま屈んで、ケーキに顔を近づけた。金目のものならばともかく、食い物に関する目利きは持ち合わせていない。しかし、そんな自分でも、このケーキが既製品でないことはわかった。見てくれがとびきりおかしいことはないが、売り物のような完璧さはない。不完全なのだ。……けっして、悪いというわけではないけれど。 「なにじろじろ見てんじゃい、文句あるんかい」  背後から、抑揚のないアフレコ。いつのまにか白い指につままれたいちごが、喧嘩を売るように自分に向かって身体を震わせている。……声優の顔は見ないまま、念のために問いかけた。 「ちとせサマが作ったあるか?これ」 「文句あるんかい」 「文句じゃなくて疑問ある」 「疑問ならしたかがないね……そう、パティシエちとせなの」  彼女はそう言うと、今度はどこからともなく小さな袋を取り出した。みちみちに詰まっているのは、色とりどりのよくあるカラースプレーチョコだ。 「これをさ、この真っ白ケーキにさ、思いっきりかける権利をあげよう。おたんじょうびさまだからね」 「……そりゃすげー権利ある」 「でしょ。さすがにさ、お店のだとさ、そゆことするの、ちょっと気後れしちゃうからね。発案者のあたし的にはさ」 「………………」 「まあでもさ、初めてのわりにはじょーできなんじゃない。ちゃんとケーキに見えるしさ。最初の頃なんかさ、クリームの厚みが均等になんなくてさ、かなりベイマックスだったもんね」 「………………」 「あ。キャンドルは既製品だよ。さすがにね。火をつけたら起きちゃうかなって思ってさ、とりあえず並べただけなの。あとで一気につける権利をあげよう。おたんじょうびさまだからね」 「………………」 「………………ねえなんでしゃべんないの?」 「………………言葉を失ったある」 「今日いっぱい言葉なくすね」 「10割ちとせサマのせいあるよ」 「せい?」 「………………おかげが2割」 「10割おかげじゃろがい」  文句代わりの頭突きが、背中に柔い衝撃を与えてくる。それでもなお、いつものように文句が出てこないのは……言葉の生まれる隙間がないほど、胸が満たされてしまったからだ。  無言でしかいられない自分の背中から、彼女の額がそっと離れた。代わりに、裾をきゅうっと掴まれる。 「ねえ、けっこー美味しそうでしょ」 「……そうあるね」 「それに独創的でしょ」 「そうあるね」 「すてきなはからいでしょ」 「そうあるね」  繰り返されるのは、考え込まずともいい簡単な問いかけだった。春雨のような柔らかいそれに答えるたびに、息をしている心地がした。胸に広がった熱さがゆっくりと溶ける。じわり、じわりと、心の奥へ染みこんでいく。 「気に入った?」  顔を覗き込みながら、少女が問いかける。答えは決まっているけれど、素直に頷くのは、やはりどうしても気恥ずかしかった。せいぜいできたのは、ともすれば鼻を鳴らす音に聞き間違えるかもしれないくらい、曖昧な「うん」という返事だけ。なのに、ちらりと見下ろした少女は、いつものように首を傾げながら小さく吐息をこぼした。笑っているのだ。からかうような音色ではない穏やかなそれは、どこまでも優しい。 「そっか。……でもさ、さすがにさ。朝っぱらからケーキは、ちょっと重いでしょ」 「……は?」  彼女はそれだけ言うと、目を瞬かせる己から離れて、ケーキの皿を両手で持ち上げる。 「あたしはいけちゃうけどさ。そっちはそういう感じじゃないでしょ。だからこれはね、おやつの時間のお楽しみだよ。ひとにはひとの乳酸菌、朝には朝のお楽しみがあるからさ」 「朝には朝の……?」 「うん、そうだよ。朝といえば、朝ごはんでしょ」  彼女はそう言うと、ケーキを両手にぽぽぽと軽やかにキッチンへと消え、数秒もたたずに手ぶらで戻ってくる。空いた手が次に包んだのは……未だ困惑したまま、所在なく空を切る己の右手だった。 「だからさ、食堂いこうよ。あたし、おかゆも作ったんだ。あっさりほかほか、お出汁がきいてるの。うれしい?」 「………………まあ、カツ丼出されるよりは嬉しいあるね〜」 「カツ丼だってうまいじゃろがい。……まあいいや、カツ丼の悪口も許してあげよう」 「……お誕生日サマだから?」 「そうだよ。おたんじょうびさまだもん。今日は、朝から晩までずっと、おたんじょうびさまの……静くんのための日なんだから」  当たり前のように呟きながら、己の半分ほどしかない小さな手が、己の手をぎゅっと握り直す。 「朝ごはん食べてゆっくりしたらさ、ほんとのプレゼントもあげる。そっちはね、食べてもなくならないものだよ」  そっと引っ張られるままに、一歩、また一歩。ドアノブを捻ると同時に、少女はくるりと振り返った。 「ねえ、なんだったらうれしい?」 「………………なんだっていいある」  それは決して、投げやりな言葉ではなく。  それを解っているからこそ、彼女もまた、軽口と共に笑うのだ。 「今日は素直だね。ジンジン」  悪態の代わりだと言い訳して、小さな手を強く握り返す。  扉の先はいつのまにか、柔らかな陽光に照らされていた。 日々をおくる 2025.03.04