あのこはかみのこ、おんなのこ
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流石にこどもっぽかったなって、今はちょっとだけ反省している。 遠ざかる島から視線を落として、ちとせは波打つ水面を見つめた。 だってまさか、あそこまで邪魔されるとは思ってなかったのだ。草太にもしものことがあったときのために記憶を保つべき自分と違って、あのふたりには、得体の知れない実験に付き合ってまで、覚えておく意味などないわけで。だから、なにもかも忘れて家に戻れるなら、一にも二にもなくそうすると思っていた。たとえちとせが同じ方を選ばなくても「だったらちとせ様はそうしなさいな」なんて言われて、それで終わりだと思っていたのに。 なのに、二人はそれを許さなかった。灰田は「だったら自分だけが記憶を持っていればいい」なんて言い出したし、静に至っては実力行使にまで及ぼうとしたのだ。……まあ、後者も結局未遂に終わったけれど。 流れゆく海を眺めながら、ちとせは頭をゆらゆら揺らした。あのふたりはどうしてそこまでしたんだろう。どうして、自分にそうしてほしくなかったんだろう。 意味わかんないな。頭おかしいな。心の中で唱えつつも、本当はなんとなくわかっていた。これが草太だったなら、自分もそうしただろうから。 だって草太は人間だ。小さくて弱い、十四歳の子ども。二度と訪れない未来で出会った彼と同じく、こんな得体の知れない世界のことなんて、これ以上覚えていなくていい普通の子だ。 そんな、ちとせにとっての草太の立場が、あのふたりにとってのちとせの立場だった。多分、そういうことなんだろう。それはわかった。わかったけど、わかったからこそ、やっぱりばかだなあと思う。だってちとせは人間じゃないし、庇護されるべき弱い子どもでもないのだ。入ってきたばかりの静はともかく、灰田なら理解しているはずなのに。現に、あなたならなんでもなんとでもなりそうですね、とか、殺しても死なないだろうとか、散々言われてきたのだし。 ……いや、それでもやっぱり、彼も本当は理解していなかったのかもしれない。 ちとせは己の顔、冷たい手触りの仮面に触れた。 これさえ見ないふりをすれば、ちとせの見てくれは華奢なか弱い女の子だ。凍った未来で世界を創りなおしたことだって、今はもう誰も覚えていない。目の前でばけものの一体や二体蹴り殺していれば違ったのかもしれないけれど、そんなことをした覚えもなかった。 ———あーあ。前みたいに、覚えてるのがあたしだけなら楽だったのにな。あんなの覚えられてたら、なめられちゃいそうでやだし。あたしほんとに強いのに、誤解されるの面倒じゃんね。 甲板の柵から手を離し、ちとせはぐうっと伸びをする。すると不意に、目の前に長く大きな影が出来た。 「こんなところで何たそがれてるあるか~? ちとせサマ」 声の主は、同じ記憶を持つ例の男だった。彼は背後に立ったまま、目の前に棒付き飴をさっと差し出してみせる。 「お腹でも空いてるあるか? ほら、飴ちゃんあるあるよ~」 「すいてないよ」 「チョコもあるあるよ~」 「いらないよ」 静は大きな手を閉じては開き、閉じては開きを繰り返した。彼の長い指の上には、そのたびに別のお菓子が現れる。彼は小さく「呵呵」と笑って、握ったその手をもう一度開いてみせた。 「プチプリンもあるあるよ~」 「ウケる。それはいたくんのじゃんね」 「いやいや人聞き悪いあるね~、ワタシがジブンで買ったヤツよコレ~」 「はいたくん泣いちゃうから返したげてね。とくいでしょ」 手癖の悪い手品師からのプレゼントは受け取らないまま、身体ごと振り向き相手を見上げる。相も変わらずへらへらした笑みを浮かべながら手を引っ込めた彼を、無言のままにじいっと見つめた。 「なにあるか~?」 「………………」 「あいやー、そんなに見つめられると穴空きそうあるね~!」 「………………」 「………………え、ホントに何……」 無言の圧にたじろぐ静は、仮面の中身を知らないだろう。ちとせの出自くらいは聞き及んでいるのかもしれないけれど、教団の信仰する神さえ信じていないこの男が、その話を信じているかさえ疑わしい。だったら、あんな行動に出るのもしかたがないなと思った。この男の中では、自分はただの女の子でしかないのだから。 「ち、ちとせサマ~? 言いたいことあるならお口で話してほしいあるよ~?」 「言いたいことはないよ、静くんはばかだなあって思っただけだよ」 「は?」 「静くんは忘れるべきだったんだよ。今回はしかたないけどね。静くん、あたしのことしらなかったんだもん。でも、次からはちゃんと覚えといたほうがいいよ」 「……何を?」 「あたしがふつーの子とは違うってことだよ」 身体をゆらゆら揺らしながら、静を見上げる。返ってくる言葉や表情は、なんとなく想像がついていた。ちとせの事情も、神話的事象も知らない大概の人間は、「こいつは何を言っているんだ」とでも言いたげな怪訝な顔を浮かべるものだ。けれど、こちらを無感情なかんばせで見下ろしていた静は……「あいやー!」と気の抜けるような声を上げ、いつものようにへらへら笑った。 「ちとせサマ、なんか勘違いしてるあるね~。ワタシ、ちとせサマがか弱い女の子だからって、あのオッサンの言うこと聞いたわけじゃないあるよ~」 それは、想像していたものとは違う返答で。 「じゃあなんで?」 浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、静はちとせの細い肩を、反った長い指で掴んでみせた。 太陽を背にした彼は、長身を屈めて顔を近付けてくる。そうして、ちとせの視界一面を覆う影の中、鈍く光る金の瞳を三日月の形に細めると。 「ムカついたから。……ただの嫌がらせだよ」 低い囁きと共に、そっと身体を離してみせる。 見上げる顔に浮かぶのは、いつもと違う、にたにたした意地悪げな笑みだった。 ちとせは、それをしばらくじいっと見つめたあと……「静くん」と、いつもの調子で彼の名を呼ぶ。 「なにあるか~?」 「むかついたのって、あたしに? あのおじさんに?」 「もちろん、ちとせサマに!」 「ウケる。あたしにむかついてあんなことしたんなら、静くんはもっとばかじゃんね」 「……はあ?」 「何されるかわかってなかったのに、記憶だっていらなかったのに。むかつくって理由だけで選んだんでしょ? だったら静くんは、あたしが思ってたよりずっとばかで……あたしよりもずっとこどもだね」 「………………」 「でもいいよ、あたしやさしいから。いくらばかでも、いくらこどもでも、静くんのこともそれなりにまもったげる。だってあたし、神の子だもん」 間髪入れずに淡々と、言葉を放り投げてみる。静はしばらく、目を見開いた状態のまま固まっていたけれど……ものの数秒で我に返って、怒りにぶるぶると肩を震わせた。 「な、なっ……何あるかコイツ~~~ッ?! バカ? こども?! ちとせサマにだけは言われたくねーある!!」 「あたしはいいんだよ。あたしだもん」 「その理屈自体が子どもあるよ?!」 「あとさ、今度からはあたしに勝手にさわんないでね。セクハラだからね。つぎやったら蹴っちゃうよ」 「二度と触るかこのクソガキ!!」 肩からバッと手を離し、静はすぐにちとせに背を向けた。そのまま船内へ向かおうとする彼を追いかけるつもりも、呼び止めるつもりも毛頭なかったけれど……手の中にいつのまにか残されたチョコに気付いたちとせは、小首を傾げながら彼の背に問いかけた。 「むかつく相手にチョコあげるの?」 「……あげるある」 「なんで?」 「ワタシが大人だからあるよ」 「でも、静くんめちゃくちゃこどもだよ。あとあたしチョコよりクッキーが好きだよ」 「あ゛ぁ~~めんどくせえ!! うるせ~あるしらね~ある~~!!!」 これ以上は聞きたくないとばかりに両手で己の耳を塞ぎながら、静は足音荒く船内へ降りていった。甲板に残されたちとせの元へ、騒ぎを聞きつけたらしい草太が小走りで駆け寄ってくる。 「ちー、どうした?」 「チョコもらっちゃった」 「それだけ? なんか怒ってたっぽいけど……」 「それだけだよ」 「……そうなの?」 「うん」 「……まあ、なんかよくわかんないけど……そろそろ中入ろう。昼飯の時間過ぎてるし、風、強くなってきたから」 「うん」 扉を開けてくれた草太に続いて、船内へと入る。昼食の振る舞われる食堂への道を並んで歩きながら、ちとせは草太の顔を覗き込んだ。 「そーちゃん、そーちゃん」 「ん?」 「たのしかった?」 「え? や、まあそれなりに……ちーは?」 「おなかすいたな~ってかんじ」 「それは今のちーの気分だろ……まあでも、楽しそうだったじゃん。シュノーケリングとか、バナナボートとか」 「そーちゃんにはそう見えた?」 「え、見えたけど……そうじゃなかったのか?」 「そうじゃないって言ったらどうする?」 「は? いや、どうするって言われても……」 「そーちゃんは、あたしが楽しかったら嬉しい?」 「そりゃ、まあ……楽しくなかったって言われるよりは、嬉しいだろ」 「なんで?」 「なんでって……あーもう、いいから行くぞ! ……腹減ってるといっつも変なことばっか聞いてくるんだよな、ちーはさあ……」 溜息と共に、草太はちとせの手をとった。そのまま当たり前みたいに引っ張られて、ちとせはいつもよりも速い歩みで、先を歩く草太の後ろ姿を追いかける。 ……繋いだ手のひらはもう、自分よりも大きい。多分、背だってあと数年のうちに追い越されるのだろう。現になんだか少しだけ、昔より大きくなった気もする。 「そーちゃん、そーちゃん」 「なんだよ」 「背、伸びた?」 「……えっ、え、わかる? いや、実はさ、去年の身体検査から伸びてたんだよな、おれ。三センチも」 「でもまだあたしとどっこいどっこいだよね」 「いやそうだけどなんだよもう!」 ぬか喜びさせられた草太は、そうやって声を荒らげながらも手を離さない。熱いくらいの子ども体温を感じながら、ちとせはふと考えた。 もしも、また世界が終わったら。 十年後の彼のように、今目の前にいる草太も、ちとせのことを守るのだろうか。 ちとせが狂っていても、人間じゃなくても。それでもあのときみたいに、目が覚めるのを何年も待ち続けるのだろうか。……ちとせが、彼のただひとりの家族だから? 彼からそれを奪ったのも、誰でもないちとせなのに? それなのに草太は本気で、ちとせを家族だと、そう思っているのだろうか。 ――思ってるんだろうな。 ちとせは心の中で呟いた。 信じ難いことだけれど、もう自分しか知らないあの日の記憶が、何より確かな証拠だった。 「……そーちゃん、そーちゃん」 「今度はなんだよ?!」 「はいたくんも静くんも頭おかしいじゃん?」 「えっ? いや、まあ……」 「でもあたしね、やっぱりそーちゃんがいちばん頭おかしいと思うな」 「え……? え、なんで急におれ悪口言われてんの……?」 「なんでだろうね」 「ほんとになんでだよ?!」 困惑の声にかまわず、ちとせは食堂の扉を開ける。奥の四人席には大人ふたりが揃っていて、テーブルの上には既に人数分のオムライスが並んでいた。付け合わせのサラダに、小さなフルーツポンチも添えられている。 ちとせと草太に気付くや否や、灰田は「ちとせ様!」と声を荒げた。 「集合時間から何分過ぎたとお思いで?! わたくしもう、くったくたに待ちくたびれたのですが?!」 「よかったね」 「ええ、ええ! ……え? よかったねとは……?」 「だって言うじゃんね、空腹は最高のスパイスだって」 「……まあ、たしかに……?」 「未来のパパも言ってたよ」 「え、そうなのですか? 我が神も?」 「つまりあたしは、パパも認める最高のスパイスをはいたくんに提供してあげたってことだよ。それってすごく良いことじゃんね。善行じゃんね」 「え、ええ……」 「つまり、はいたくんはあたしに感謝すべきってことだよね」 「た、確かに……ありがとうございます……?」 「いいよ。お礼にデザートもらうね」 「ほよ……ほよよ……?」 丸め込まれた灰田はアンテナをふよふよさせつつ、何もわかっていないポメラニアンのような表情でフルーツポンチを差し出してきた。当たり前のようにそれを受け取れば、隣では草太がため息を吐き、斜め向かいの席に座った静はいつもどおりへらへらしながら、嫌いな野菜を灰田の皿へと移し始める。 「……あっ?! ちょっと静さん、何をなさっておいでで?! わたくしのサラダのニンジンが1.5倍ほど増量しておりますが?!」 「あいやー見つかったある、ちょっとしたおすそわけよ~」 「いやそれ嫌いなものをわたくしに押し付けているだけですよね?!」 「そんなことないある、ワタシ大好きなニンジンを大好きな灰田サンにプレゼントしてるあるよ。これも善行あるね~」 「あれ?そうなのですか? でも昨日はニンジン嫌いって……」 「たぶん灰田サンの聞き間違いあるね~」 「そ、そうでしたっけ? あれ……? それは、申し訳ありません……?」 「無問題よ~、お詫びにオムライス一口もらうあるね~」 「あっはい……えっ一口でかっ……」 「はいたくん、ご飯中に騒いじゃダメだよ」 「あっあっ申し訳ございませ……え、あれ? わたくしが悪いので? これわたくしが悪いので?!」 灰田はそこでようやく「あっこれわたくし悪くない!」と気付いたようだった。とはいえ唯一の味方がいない今、怒っても無駄だと悟ったのだろう。わなわなと肩を震わせながら、理不尽さへの怒りを収めるべく、オレンジジュースをストローでちゅいちゅいと飲み始める。その名の通りにオレンジ色したそれと違って、ちとせの席にあるのは茶色い烏龍茶だった。 これも嫌いじゃない。だから別に、これでも良かったのだけれど……なんとなく、彼と同じジュースの方が飲みたい気分になったので。 ちとせは黙ったまま、ストローを咥える灰田をじいっと見つめた。 「……は? なんですかちとせ様」 「はいたくん、あたし喉渇いたな」 「そこにお茶があるでしょう。わたくしがわざわざ用意して差し上げたのですよ、わざわざ」 「はいたくんと同じのが飲みたいな」 「はあ、そうですか。ではあちらのドリンクバーへどうぞ。なんでも飲み放題ですよ。リンゴジュースはありませんでしたが、オレンジジュースはあったので及第点としましょうかね」 「あたし今飲みたいな」 「……もしやわたくしの飲んでいるこれをよこせと? いやですよ、まだ飲み足りないですし」 「そんなこと求めてないよ。あたし新しいの飲みたいもん」 「じゃあ自分で取ってきたら良いだけじゃ………………ァアーーーッもうわかりました! わかりましたよ!! わたくしがとってくればいいんでしょう?! いい加減これくらい自分で動くようにならなきゃ、これから先ぶくぶく太りますからね!!」 「あたし太んないからだいじょうぶだよ」 「ほんっとこのクソ女、お願いしますのひとつも言えないんですかねえ……!」 文句を言いつつも席を立ち、灰田は少し離れたドリンクバーコーナーへ向かっていく。それと同時に、ちとせの耳にくすくすと微笑ましげに笑う声が聞こえた。声の方へと視線をやれば、隣のテーブルには見覚えのある夫婦の姿。同じ屋敷で何度か顔を合わせた船舶操縦外国女が、歳の食ったダーリンに向かって「仲良しでいいわねえ」なんてニコニコ笑いかけていた。 「子どもの可愛いわがままって、なぜだか聞いてあげたくなっちゃうものね」 ……子どもの、可愛いわがまま。 なるほど、傍から見ればそう見えるらしい。ちとせからすれば、灰田にとって自分のお願いは、わがままの皮を被った命令でしかないと思うのだけど。 そこまで考えて、ちとせはかくりと首を傾げた。昨夜の屋敷の地下での出来事が、ふと頭に浮かんできたからだった。人外であるちとせのことを、ただのガキだと、わがままな子どもだと。当たり前のようにそう言い放った、あの時の大人ふたりの姿が。 ――今みたいなわがままも、滝行みたいな無茶振りも、ぜんぶあたしが神の子だから通ってることじゃんね。 ちとせはそう思っていた。 だって教団でも、あたしは信徒じゃなくておきゃくさんみたいなものだし。支部長にだって気に入られてるし。そもそもあたし、めちゃくちゃ強いし。機嫌を損ねると面倒だから、色々してくれるんだろうなって思ってたんだけど。 でも、もしかして、ほんとはそうじゃなかったのかな。 いたずらをゆるすのは、あたしがこどもだから? わがままを受け入れるのは、あたしが家族だから? 「ウケる」 本当にそう思ってるなら、やっぱりここには狂人しかいないみたいだ。 ……まあでも、いいや。 ジュースを片手に戻ってくる彼を見つめながら、心の中、いつもの調子で呟いた。 どうせ、自分はいつかいなくなる。ひとのこじゃない自分がいるべき場所はここじゃないから。だから、さっさと優しいらしい風のかみさまに認知されて、自分の力だって絶対に効かないだろう彼の下で、悠々自適にだらだら暮らすのだ。それがいい。そうすればもう二度とあんな面倒くさい惨劇は起こらないし、自分だって平和に幸せに生きていける。 でも、それをするにはまだ早いとも思っていた。自分を拾って育ててくれた教団には、ちとせもそれなりに恩を感じているのだ。もしも何かが起こったときは、自分のせいで家族も故郷も喪った草太ともども、守ってあげてもいいなと思うくらいには。 ……だから。 「もういっか」って思うまでは、もうちょっとだけここにいるつもりだから。 「それまではつきあっててあげてもいーよ、家族ごっこ。だってあたし、やさしいもんね」 「は?今なんて言いました? 珍しく感謝の言葉でもおっしゃいましたか?」 「あたしやさしいねって」 「えっ……わたくしじゃなくてあなたが? やさしい?! このクソアマ、頭イカれていらっしゃるので?!」 「はいたくん、ジュースは?」 「ああもうはいはいこちらにございますよ!! ったく、もう何もないですね?! わたくしご飯食べ始めちゃいますからね!!」 「はいたくん」 「ああもう今度はなんですか!!」 「ジュースありがとね」 「………………えっ? えっちとせ様? どうしたのです? よもや熱でもおありでは……?」 「じゃあ、あたしもうぜんぶ食べ終わったから。次はアイス持ってきてくれる?」 「ハァアアアアア?! わっ……わたくし心配して損したんですけどもぉ!! ありませんよそんなモン、ていうかあなたわたくしのフルーツポンチ食べたでしょうが!! それで何故満たされないのです?!」 「アイスは別腹じゃんね」 「いくらポケットが男より一つ多くても胃はひとつのはずではないんですかねえ?!」 「ウケる」 「ウケませんよ何一つ!!」 「灰田サン、ドリンクバーの裏にソフトクリームの機械もあるあるよ~。ワタシはチョコがいいある」 「えっ」 「あたしはミックスがいいな」 「そーちゃんサンは?」 「いや、おれは自分で行くから……」 「そーたさんだけじゃなくてあなた方もご自分でとってくれません?! ああ~~もお~~~!!」 灰田はキレ散らかしながらも、「ミックスがなかったらチョコ一択ですからね!」と言い残してドリンクバーの方へと向かった。静はその隙に自分のニンジンを完全に灰田のサラダに移し替え、草太はもはや慣れたと言わんばかりに黙々と、自らの分のオムライスを頬張っている。 ちとせは灰田の帰りを待ちながら、残ったオレンジジュースをちゅいちゅい吸った。飲み干したタイミングで、隣のテーブルから声をかけられる。視線を向ければ例の若妻は、にこにこ笑ってこう言った。 「優しいお兄ちゃんよね。羨ましいわ!」 数秒の空白の後に、ちとせは首を傾げた。旅行中、ちとせ達の関係を彼女に説明した覚えはなかったのだけれど……彼女から見てちとせ達は、どうやら家族に見えているようだ。 彼女の年上のダーリンも、同じく微笑ましげに笑いながらちとせ達を見ている。もしかして、彼もそう思っているのだろうか。それなら他の乗客達からは、どんな風に見えているんだろうか? 顔の似てない兄弟? 年の離れた遠い親戚? どちらにしたって、まったくの誤解ではあるのだけれど。 ……まあいっか。 別に誤解されたままでも、困ることなんてないもんね。 なんとなくそう思ったので、ちとせは頷くことにした。 (あのこはかみのこ、おんなのこ) ……一方、ちとせの無言の返答にほのぼのする夫婦とは裏腹に、同テーブルの静と草太、それからちょうどソフトクリームを両手に戻ってきた灰田衣良は、灰田を「優しいお兄ちゃん」だと素直に肯定したちとせのことを、信じられないものを見るような目で凝視していたのだけれど……。 「でも、あたしのほうがやさしーけどね。あ、はいたくんおかえり。次はココア持ってきてみ?」 「どっこが優しいんですかねえこのアバズレメスガキクソ女!!!!」 付け足されたちとせの言葉に、すんっと我に返ったのだった。