いつかの未来で教えてね

天PLから兄への心境を聞いて書いた短文 写真を撮り始めた理由があまりに可愛かったので……


 空が茜に染まっている。  黒い鴉達が、群れを成して飛んでいく。  音もなく羽ばたく彼らの行く末を見送りながら、天はひとり、無音の街を歩く。目的は普段と変わらない。仕事を終えた、盲目の兄を迎えに行くためだ。  己の通う大学と、彼が音楽療法士として勤める病院との距離は、歩いて向かえるほどには近いけれど、もどかしさに足早になってしまうほどには遠い。駆け足で進んでいけば、やがて見慣れた通用口が見えた。彼はすでに、白杖を片手に軒下で待っている。隣に、地毛らしい柔らかな金髪をした看護師が立っていることもあるのだけれど、どうやら今日はひとりのようだ。  天は足を止め、乱れた呼吸を整える。そうして、あたかもゆっくりやってきましたと言わんばかりの速度で、彼に歩み寄った。  天は言葉を話せない。口も舌もあるけれど、それらをどう動かせば正解の「声」が出せるのか、音を知らない天には解らないからだ。だから天は、視線の先にいる彼の名を呼べない。けれどそうせずとも、彼は天の方へと顔を向け、いつもと変わらない穏やかな笑みを見せた。 「天」  彼が……海影が、言葉を発した。声は聞こえないけれど、その唇が順番に形作ったものが、自分の名であることはすぐに解った。彼はいつもこうやって、すぐに天に気付いてくれる。「同胞の足音なら聞き分けられるんだよ」と教えてくれたのは、天がまだランドセルを背負っていた頃だったか。「天の足音は特に分かりやすいね」と付け足されたことも覚えている。今聞けば、そんなにわかりやすいもんかと文句を言いたくなってしまうけれど……あの時は、盲目の彼がすぐに自分に気付いてくれることが、ただ、純粋に嬉しかった。  穏やかな微笑みの元へと歩み寄れば、目を閉じたままの海影が口を開く。 「少し息が乱れているね」  そう言葉を形作りながら、海影の手が、こちらへそっと伸ばされた。目の見えない彼の代わりに、天は自ら顔を寄せる。触れた細長い両指は、そのまま輪郭に沿うように天の頬を包み込んだ。ひんやりとした感触に心地よさを覚えるのも束の間、目の前の彼が苦笑する。 「ああ、やっぱり頬が熱い。急がずとも良かったのに」  見られないのをいいことに、天は不服げにぐっと下唇を噛みしめた。長兄にはいつだって、バレたくないことこそ見破られてしまう。  少しは見ないふりをしてくれたら良いのに。いつか吐き出したこの愚痴を「ブラックジョークすぎるだろ」と笑ったのは誰だったか……ともあれ、黒かろうが白かろうが、海影の前でこそ大人ぶりたい天の気持ちは変わらない。天は何も反応しないよう心がけながら、彼の持つバイオリンケースを片手で担ぎ、もう片方で彼の手を取った。海影は当たり前のように天の手を握り返して「ありがとう」と微笑する。 「まっすぐ帰るかい?」  握った手に一度手に力を込める。これは肯定や了承の合図だった。「はい」は一回「いいえ」は二回。痛くない程度に、繋いだ手に力を込めるのだ。  この取り決めは、二人の間でしか必要ない儀式だった。他の同胞や人間、妹達相手なら、わざわざ手を繋がなくたっていい。海影は伝えたいことをそのまま口に出せばいいし、天も首を縦横どちらかに振るだけで事足りるからだ。けれど、こと天と海影のふたりとなると、そうはいかない。海影の言葉は天には届かないし、天の身振り手振りも、海影の目には映らないのだから。  回りくどい方法だと思う。けれど天は、この意思疎通の方法が、実のところは嫌いではなかった。  海影の世界には色が無く、代わりにさまざまな音に溢れていて。  天の世界には音が無く、代わりにあざやかな色に彩られている。  音を知らない弟と、光を知らない兄。正反対だけれど、それでも繋いだ熱だけは、ふたりで等しく感じられるから。  隣の彼はどう思っているのだろう。自分と同じ気持ちなのだろうか。  ふとそんなことを思って、隣を見る。すると、海影の唇が、ひとりごとのように動くさまが見えた。 「鴉が鳴いているね。もう、日が沈む頃合いなのかな」  天が空を見やれば、地平線の彼方で燃え尽きんとする朱色の太陽が見えた。肯定するように一度、手に力を込めると、海影は不意を突かれたようにぱちりと瞬きをした。やはり、ひとりごとだったらしい。海影は今度こそ天の方を向き、「日暮れが随分と早くなったね」と、ゆっくりと口を動かした。 「そういえば、明日はひとりで出かけると言っていたね。海の方まで行くんだろう?」  相槌代わりに手を握ると、海影はそのまま言葉を続ける。 「あのあたりは、随分と景色が綺麗らしいね。夕陽が、茜色に染まった水面をまっすぐに照らして……まるで、水平線へ続く金色の橋のように見えるらしい」  そこまで言って、海影はふふ、と、小さく声を漏らして笑った。 「とはいえ、当然この目で見てきたわけじゃない。実際はどうかわからないからね……代わりに、天が確かめてきておくれ」  海影はいつも通り、目を閉じたまま柔和な微笑みをたたえながら続ける。 「明日は私も、演奏の予定があるからね。迎えのことは気にせずに、ゆっくり眺めておいで」  その言葉を「視た」瞬間、何とも言えない寂しさが胸の内に広がった。  天は知っている。盲目の彼には見えない空の茜を。  夕陽に向かって飛び去る鴉がどんな風に羽ばたくのかも、濡羽色の翼が、どんな風に鈍く輝くのかも知っている。  けれど天は、鴉の鳴く声を知らない。  子供たちが帰り道を辿る足音も、夕飯の支度の音も。夕陽に染まるこの街が、どんな音に溢れているのかがわからない。  元より持って生まれなかったものだ。いまさら不便には思わない。だから、街の喧騒も鳥の歌も、知らないままでいいと思っている。  けれど、目の前の彼が奏でる音だけは違った。  彼が弦を滑らせるたびに、どんな音が鳴り響いているのか。  彼が好きだと口にする曲が、どんな旋律でできているのか。  ……彼がいつも、どんな声で自分の名前を呼んでいるのか。  昔から、ずっと聞いてみたかった。  考えているうちに、横断歩道の前まで辿り着いた。赤の信号が変わるのを待つ間に、天は一度、海影と同じように目を閉じてみる。音のない世界から視界を消せば、天に残るものはひとつだけ。繋いだままの手から伝わる、ひんやりと冷たいぬくもりだけだ。  ただひとつの確かなそれを、いつからか守りたいと思うようになった。  自分が彼の音を聞ける、夢のような未来を求めるようになった。  ……彼も、同じように思ったことはあるのだろうか。  口づてに聴く景色を、生まれ落ちた時から与えられなかった色を……心から望んだことがあるのだろうか。  手を優しく引かれる感覚に、はっと我に返って目を開ける。信号は既に青へと変わっていて……視線を隣に移せば、海影もまた、天へと顔を向けていた。 「天、まだ赤色かい?」  この信号機は音が鳴らない。自分が伝えなければ、彼はいつ青になったか気付くことはない。とはいえ慣れ親しんだ帰り道だ、体感でなんとなく察したのだろう。問われた天は、手に二度、力を込めようとして……一度にとどめ、嘘を吐いた。そうして、繋いだ手を一度離し、首をかしげる海影の手のひらを上に向け……ゆっくりと言葉を紡いだ。  彼の白い手の内に、自分の指を滑らせて。 「しゃしん、ちゃんととってくる」 「いつか、みかげが、じぶんでたしかめられるように」  海影以外の相手になら、使い慣れたペンで空中に文字を書けばいい。  海影が相手だからこそ、触れ合わなければ伝わらない。  だからこれも、二人の間でしか必要ない儀式だ。  回りくどくて愛おしい、意思疎通の方法だ。 「みてほしいもの、ぜんぶのこすよ」  最後にそう書き残して、もう一度手を繋ぎなおした。なんだか後から気恥ずかしくなってしまって、天は一度顔を背けたあと、うかがうようにちらりと隣の顔を見上げる。するとそこには、珍しく、驚きを露にした表情を浮かんでいたものだから……天もつい、ぽかんと口を開けたまま彼を見つめてしまう。  少しの沈黙の間、海影はしばらくぱちぱちと瞬きを繰り返したあと……いつものように目を閉じて、ゆっくりと唇を動かした。 「そうだね。楽しみにしているよ。天が残したいと願うものなんだから……きっと、とても綺麗なものばかりなんだろうね」  天が何かを伝えるよりも先に、海影は優しく天の手を引いて「帰ろう」と微笑んだ。穏やかな笑みと青信号に背を押されるまま歩き出せば、海影も同じように足を進める。 歩くたびに隣で揺らめくのは、柔らかな金の髪。夕陽に照らされ透き通るそれは、天の目には、日の光よりもずっと煌めいて見えた。 ——天が残したいと願うものなんだから、きっと、とても綺麗なものばかりなんだろうね。  ……目の前の彼は、そう言ったけれど。  天にとってはその色こそが、ずっと残しておきたいものなのだと。それこそが、世界でいちばんうつくしい色なのだと知ったら……彼はどんな顔をするだろうか。  知りたいような、知るのが少し怖いような。……そもそも、そんな言葉を簡単に告げられるほど、素直な性分なわけもない。  大人になり切れない天はまだ黙ったまま、言葉の代わりに、繋いだ手をぎゅっと握る。  冷たかった兄の指先はいつのまにか、天と同じ温度を孕んでいた。