運命の嵐と、終わらぬオルギアの話
気まぐれな双神に振り回されながらも、学校生活を続けてもう二年が過ぎた。 一度も破ったことのない厳しい門限は、時が経っても緩和されることはなく。放課後に寄り道が出来ない分、千種は朝早くに登校し、誰もいない教室で本を読むのが習慣となっていた。 今朝もそれに違わず、自分の席に座って本を開く。すると、ガラガラと引き戸の開く音がした。顔を上げてそちらを見やれば、そこにいたのはクラスメイトの女子生徒だ。彼女は千種の姿を認めると、揶揄うように笑う。 「桐野くん。ホントにいたんだ~」 そして千種の隣、自分の席でもない椅子に座って、千種を上目に見つめながら馴れ馴れしく話し始めた。どうやら千種が他の生徒と、この早朝の習慣について話しているのを盗み聞きしていたらしい。前々から彼女の好意――という言葉は、聞こえが良すぎると思うが――には勘づいていたが、まさか唯一自由に過ごせるこの時間まで邪魔されるとは。だらしのない服装や日頃の言動のわりに、早起きくらいはできるらしい。千種にはどうでもいい情報だ。 女は口を挟む間もなく話を続けた。どれも他愛のない話で、重要性はない。表面こそ穏やかな笑みを貼り付けながら、千種はこの場を離れる適当な理由を考えていた。……手っ取り早く、手洗いにでも席を外そうか。そう思い至り、本を机の中にしまおうとする。しかし女は、そんな千種の腕にそっと手を添えてきた。整えられた長いベージュ色の爪が、妙にぷっくりとしていて不気味だった。 「やっぱり……桐野くんってさ、結構腕太いよね」 確かめるように指先で触れてくる女の手は細く、己よりもずっと白い。 「部活入ってるわけでもないのに、ちゃんと筋肉ついててさ。手も、他の子より大きいし……うちらよりも大人の、男の人の手って感じ……」 女は、千種がとうに失った高い声でそう囁くと、目を伏せそっと寄りかかってくる。人工的な花の香りがした。己の硬い腕に柔らかな胸が当たる感触がして、一気に頭に血が上る。興奮に、ではない。奥底から湧き上がるのは、純然たる怒りだった。 この女は、自分の身体が、当たり前のように男に求められ、愛されるものだと解っている。それを微塵も疑っていないから、こんなことができるのだろう。それが、どうしようもなく腹立たしかった。女の白い腕も、高く甘い声も、違和感なく身に纏える香りも、華奢な肩も、柔らかな胸も……か細い首筋も。 憤怒とは、頂点に達すると笑いに変わるものらしい。強い怒りを感じると、身体は極度の緊張状態となる。それを弛緩させるために、脳が笑えと命令をするのだとか……なるほど、実際はこんな感覚がするのか。 千種は吐息だけで笑った。それをどう捉えたのか、女は顔を伏せたまま同じように笑って、更に千種にすり寄ってくる。何ごとかを話しているようだが、今の千種には何も聞こえていなかった。 女の吐息も、自分の鼓動も、窓の向こうで囀る鳥の鳴き声さえも届かない、耳鳴りがするほどの静寂。その中で、千種は女の白いうなじを見下ろしていた。……ああ、こんなに細ければ、絞めることも容易いだろう。きっと片手だけで事足りる。この女の言う通り、千種の手は、並の男よりも大きいのだから。 いや、手だけではない。千種は他の男よりもひときわ背が高く、体格も良かった。何もせずとも筋肉はつきやすいし、声だって低い。十七になった千種には、昔の面影など何一つ残っていなかった。高い声も、白い肌も、柔らかい肢体も。もう、自分には何もないのだ。 頭が痛い。先日の儀式を思い出す。ここにいろと命じられ、自分はただ壁を背に立ち尽くしたまま、寝台の上を見ていた。年若く美しい女が、双神によって抱かれる様を。 鷲掴まれた豊満な胸は、彼らが力を込めるたびにぐにゃりと形を変えて。何もせずともしとどに塗れた雌の性器は、彼らの剛直たる雄を易々と呑み込んでいた。突き入れられるたびに、女は喘いだ。ぽってりとした唇を歓喜に歪ませながら、鳥のように高い声で。 頭が痛かった。息が震えた。ただただ、殺してしまいたいと思った。あの女を。美しい顔で媚び、柔らかい身を捩らせて神を誘う女を。己には何一つ残らなかった柔らかさをいつまでも持っていられる、女という存在を。 終わらぬ性交のさなか、双神と目が合った。彼らは千種を見ると、同時に目を細めてわらった。酷く愉しそうに。わらいながら、おんなの肌に、白い身体に。見せつけるように、爪痕を残して……。 「桐野!」 唐突に響いた声に、女がばっと身を引いた。それと同時に、自分の指が女のうなじを掠める。そこで千種はようやく、己がこの女の首を締めようとしていたのだと気付いた。 声のした方を見れば、扉から顔を覗かせた男子生徒が千種を見ている。隣の席の友人だ。彼は少し驚いた表情を浮かべていたが、自分の席……女が勝手に座っている席へと歩み寄ると、千種に向かって笑いかけた。 「おはよー桐野。……おい、そこ俺の席なんだけど。どけって」 「わかってるし……」 女は不機嫌を隠さない表情で吐き捨てると、逃げるように教室を出た。それを皮切りに、まばらに他の生徒も登校してくる。友人は溜息を吐きながら学生鞄を置いたあと、こっそりと耳打ちした。 「おまえ、大丈夫か?すごい顔してたぞ」 「……すごい顔?」 「なんつーか、顔色良くなさそうっつーか……まあ、遠かったし、あんまわかんなかったけど……」 言い辛そうに言葉を淀ませるその顔には、心配の色だけがあった。であれば、自分がついさっきまで抱いていた殺意には気付かなかったのだろう。 千種は一度目を伏せると、彼の顔を見た。そして、困ったように眉を下げ笑う。 「悪い、心配かけて。ちょっと……」 「ちょっと?」 「……ちょっと困ってたんだ、距離が近くて……声かけてくれて助かったよ、ありがとう」 感謝と共に微笑めば、相手はほっとしたような表情を見せたあと、同じく笑って首を横に振った。 「いや、いいよ。たいしたことしてねーし……あ、そういやおまえ、今日大丈夫?台風来るって、テレビで見たけど」 「台風?」 「電車とかって止まったりするじゃん?バスは大丈夫なの?」 千種のいる村とふもとの町を繋ぐものは、数時間に一本のバスだけだ。それを、どうやらこの友人は覚えていたらしい。 「俺はチャリだからそのへんは大丈夫なんだけどさ~」 「ああ……大丈夫だと思う。今まで天候が悪くても、バスが停まったことはないし……今更帰るわけにもいかないしな」 「確かに、おまえずーっと無遅刻だもんな~。じゃ、いいか!あーあ、あんま強い風吹かなきゃいいんだけど……」 「自転車だと横降りの方がきついもんな」 「そうなんだよ……あ、そうだ。なあ桐野、飴いる?さっきコンビニで買ってきたんだけど」 友人が鞄から取り出したのは、飴の入った小袋だった。赤く小さな、林檎味の飴。……パッケージには、あの時とは違うキャラクターが印刷されている。 千種は少し目を伏せたあと、緩く首を振った。 「いや、いい。ありがとう」 「そっか?ま、欲しくなったら言えな!」 友人の笑顔には、お人好しの善意だけがあった。それを真似るように笑って応えながら、何の気なしに窓の外を見る。遠くの空は、暗い灰色の雲に覆われていた。台風前の夕焼けが、最も鮮やかな色に染まるものだ……どこかの本で見た一節をふと思い出す。思えば昨日の夕焼けは、不気味な程に赤かった。 千種の胸の片隅に、髪の毛ひと筋ほどの不安めいた予感がよぎる。けれどそんな感覚も、響くチャイムにかき消された。千種はゆるく首を振り、黒板に姿勢をやる。もう、授業に集中しなければ。たとえ傘が壊れるほどの悪天候になろうとも、今さらどうしようもないのだから……。 そんな今朝の選択を、千種はどうしようもなく悔いていた。 「桐野?どうしたんだ?」 激しい雨音が響く、放課後の教室。携帯画面を見たまま動かない桐野に、今朝と同じく声をかけたのは、隣の席の友人だった。千種は顔をあげると、抑えようのない溜息を洩らす。 「……バスが、運行休止になったらしい」 「え、まじ?電車はギリ動いてるっぽいけど……あ、タクシーとかは?」 「駄目なんだ、村までの道路自体に問題が出たらしいから……」 「あー……」 気まずそうにぽりぽりと頬を掻く友人に対して、いつものように気にするなと声をかける余裕は無かった。いったいどうやって帰ればいいのだろうか。歩いて帰る……のは、この天候の中では流石に無謀だろう。村は山の中にあるのだ、別の災害に巻き込まれる可能性だってある。それに、どうあがいても、門限には絶対に間に合わない。 無言で俯く千種に、うーん、と友人は少し考えたあと……「なあ、桐野」と、背の高い千種の顔を覗き込むようにして言った。 「おまえがいいならだけどさ。うち、親迎えに来てくれるから、よかったら……」 「あらー、そうなの!だったらもう、うちに泊まってっちゃいなさい!」 ワゴン車を運転しながら、友人の母は一つも悩まずそう言った。千種は少し瞬きをした後、後部座席で深く頭を下げる。 「すみません、ご迷惑を……」 「いいわよ謝んなくて、しょうがないしょうがない!ほら、親御さんとこに電話したげるから!番号は?」 「あ、いえ、自分で……今、いいですか?」 「いいわよー。ほら裕司、あんたちょっと黙ってな」 「さっきからうるせーのは母さんの方だよ……」 正直どちらも騒がしいが、何も言わずに連絡をつける。電話先の相手は、良く知った古株の男だった。彼は少しだけ黙った後、「仕方のないことですね」と溜息を吐く。 「ただ……どうか、なるべく早く帰ってきてくださいね」 「……わかった」 相手の声は、いつもと少し違う雰囲気を纏っていたように思えた。言いようのない不安がこみあげて、電話を切ると同時に深い溜息が漏れてしまう。ああ、こんな場で溜息なんて吐くべきではないのに。黙っていてくれた友人に視線をやれば、心配げな眼差しと目が合った。 「桐野、顔青いぞ。大丈夫か?」 「いや……門限、守れなかったから……」 「門限って……しょうがないだろ?バス止まってんだから。それに、連絡ついてんだし、泊まるとこもあるわけだし。家に心配かける要素ないんだしさ、だったらいいじゃん」 「……そう、だよな」 そうだ、仕方のないことだ。今の状況では、どうしたって村には帰れない。だからこそ電話を取った古株の男も、あっさりと外泊を了承してくれたのだろうし……。 考え込む千種を見て、友人はどこか呆れたように笑う。 「にしてもさあ、おまえんちってほんっと厳しいんだな!」 見当外れな言葉に、千種はただ、吐息だけの笑みを返した。……いや、そもそも見当など付くはずもないのだ。得体の知れない性カルトで育ち、神に抱かれながら神官として生きているなど……一般的な日常に生きる善良で普通の人間に、想像などできるはずもない。そもそも千種にとってはその方が好都合だ。解ってほしいと思ったことだってなかった。 ともあれ、突然の災害とありがたい善意によって、千種は友人宅の一家団欒に混ざることになり……一般的な日常というものを、図らずしも少しだけ経験することとなった。 友人の家族は、みな優しかった。心地よいと感じる程度に留まった気遣いに、干渉しすぎない談笑。寝る前のゲームに、友人が語るとりとめのない世間話……穏やかな時間は、どことなく居心地が悪かったものの、千種に少しの安心感をもたらしてくれた。目新しいそれらのおかげで、明日の心配に割く時間がなかったからだ。 彼らの善意と、分けてもらえた穏やかな日常に、千種は心から感謝していた。……だが、それだけだった。それを好ましいとも、羨ましいとも、千種は少しも思えなかった。 翌朝、千種は習慣よりも早く目が覚めた。壁掛け時計の短針は4を指し示している。外はまだ薄暗いが、窓越しの雨はまるで降っていないように見えるほど和らいでいた。携帯で確認してみたところ、今朝はバスも通常通りに運行するらしい。 千種は始発に乗るべく身支度を済ませ、施錠してもらうために、申し訳ないと思いつつも友人を起こして感謝を述べ、すぐに家を出た。一度眠ったからだろうか。それとも昨日、平和な日常の一部を体験したからだろうか。昨日ほどの不安感は、千種の胸には残っていなかった。 バスから降りた頃には、もはや傘も要らなくなっていた。ぬかるんだ土を踏みしめて辿り着いた教団の正門に、いつもの男はいない。訝しみながらも教団内に入れば、疑念はより強くなった。中が、しんと静まり返っていたのだ。時刻は6時を過ぎた頃。この時間ならば、いつもは食堂に数人程度の人影くらい見えるものなのに。 耳を澄ませてみれば、奥の祭場から微かな声が聞こえた。歩みを進めると、扉が開けっ放しになっていることに気付く。千種は足音を殺して近づいて……見えた光景に、思わず我が目を疑った。 そこにいたのは、床にぐったりと倒れこんだ教団員達だった。みな一様に白と赤の体液に塗れていて、荒く胸を上下させている者もいれば、ぴくりとも動かない者もいる。あれは、もしや……。 恐ろしい想像が頭を駆け巡ったが、それを打ち消すような悲鳴が聞こえて、千種は咄嗟に奥を見た。そこにいたのは、寝台の上に唯一残っている年若い女の教団員と、それを取り囲む双神の姿だ。女の美しいかんばせには見覚えがあった。以前、千種の目の前で神に抱かれていた女だ。 けれど、あの時とは様相が違っていた。泣き叫ぶ女の声には、もはや快楽の音など微塵もない。胴体が魚のように跳ね、白い足がぴんと張り詰めたかと思うと、糸を切られた人形のように弛緩して……女の身体は、そのまま動かなくなった。 凄絶な光景に、千種は無意識に息を呑む。双神の”遊び”なら幾度となく目にしてきたけれど、ここまでの惨状など一度だって見たことがなかった。ましてや……人が、目の前でこと切れるさまなど。 手が震え、思わず取りこぼした学生鞄がどさりと落ちる。それと同時に、ぬいぐるみでも投げるかのように、女の肢体は床へと放り落とされて……二柱の顔が、こちらを向いた。 「「あー、帰ってきたんだ」」 表情は逆光で伺い知れない。声色は、いつもどおりだ。………………いつも通り?違う。全然違う。全然違う! かちかちと、小さな音がどこかから聞こえる。歯の根が合わない自分の口の中からだと、遅れて気付いた。 二柱の神は、ただ一言告げる。 「「おいで」」 全身から血の気が引くのを感じた。それでも、拒むことなどできやしない。逃げられるはずもない。本能的な恐怖に竦む足を必死に動かし、千種はベッドの上に乗りあげる。目の裏がちかちかと点滅するような酷い頭痛に、呼吸が酷く乱れていく。 チグ、と名を呼ばれ、千種はただ顔をあげることしかできなかった。眼前に迫る双神の表情を前に、見開かれた己の瞳から、無意識に恐怖の涙が零れる。声変わりの瞬間よりも深く恐ろしい絶望の中、紡げる言葉はただひとつだけだった。 「ご……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」 拙く単調な言葉で、何度も何度も赦しを乞う。けれど、双神の纏う空気が変わることはない。重いなんて言葉では表現し得ないほどの重圧の中で響いたのは、子どものような軽い口調だった。 「チグなんで謝ってるの?」「わかんない」 「何か悪いことしたのかな?」「チグ、いい子じゃなかった?」 一柱の手が、千種の頬を包む。 一柱の指が、千種の手首を掴む。 暗闇でなお鈍く光る、四つの瞳が千種を捉える。 「いい子じゃないならお仕置きしないと」「しないとね」 瞬間、千種は己を映す金色に幻影を見た。 それは、腐敗した泡立つ塊。 それは、形成と溶解を繰り返す蒸気。 絶え間ない悪夢のようなそれは、それは……。 ← →